お祝いのメッセージ
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福岡県理学療法士会発足50周年を祝して
- 第4代会長
(任期 昭和62年~平成18年)
- 橋元 隆
福岡県理学療法士会発足50周年おめでとうございます。第4代福岡県理学療法士会会長を昭和62年度から平成18年度までの10期20年務めさせていただきました。今の職にありますのもそのおかげと光栄に思い感謝申し上げます。
思い起こせば、旧労働福祉事業団九州リハビリテーション大学校理学療法学科一期生として卒業した昭和44年(1969年)、第4回日本理学療法士学会が6月、神戸市で開催されました。就職して1年目、いや3か月目、九州労災病院に就職していた私(辞令をいただいた4月1日の昼休みソフトボールをしていて左大腿直筋断裂、翌日から3週間の入院生活、健康保険を有効に使用)は、学会とはどのようなものか興味津々、兵庫県立リハビリテーションセンターに就職していた同級生に会える楽しみもあり、厚かましく先輩に同行しました。学会といえども、まだスライドも使わない口述のみの発表が多い時代でした。
学会初日の夜(6月7日)、参加者の懇親会が神戸の奥座敷、有馬温泉で催されました。全国から集まった参加者、仕事場での苦労話など聴くことができました。
福岡から参加した先生方でも初対面の先輩方が多く、いつの間にか車座になり「福岡でも有資格者の理学療法士会を立ち上げよう!」と盛り上がりました。
その年の8月7日門司鉄道病院(現JR九州病院)にて設立準備委員会を開催、昭和44年9月7日、福岡県理学療法士会が発足しました。初代士会長 大西繁治郎先生(九州労災病院技師長 故人)、会員数 23名 会費 月200円、発会総会後、記念講演は、「冷療法の理論」原 武郎先生(九州労災病院 リハ科部長 故人)、まさに電光石火のスタートでした。私にもいきなり監事の役が回ってきました。この9月7日が後に私の人生においてさまざまな出来事がおこるXdayとなりました。
第2代士会長が楠一義先生(旧門司鉄道病院)、第3代士会長下畑博正先生(九州労災病院)、下畑会長時代には学術部長、副会長(事務局長兼務)などを歴任、全国学会、全国研修会、現職者講習会、九州理学療法士・作業療法士合同学会の担当・開催等々、組織のあり方、マネジメント等学ばせていただきました。特に、士会長を務めていた20年間、大峯三郎副会長、髙橋精一郎事務局長のいわゆる「HOTコンビ」、そして協会理事を務めていた半田一登現協会長の支えのもと、多くの方々に力添えをいただき感謝にたえません。「昭和で20年」「平成で30年」、50年の歩みはまさに私自身の理学療法士としての歴史のような気がします。
昭和30年代「リハビリテーションは西から陽が昇る」といわれた時代がありました。理学療法士が誕生して50年余り、福岡県は常に先駆的な働きを担ってきたという自負があります。
理学療法士は、生活機能「心身機能・活動・参加」の改善・向上に関わり、支援する(介入できる)専門職であります。質の高い理学療法を提供するためには理学療法士としてその専門性、専門職としての本質、「真の品格」が問われる時代となっています。(公社)福岡県理学療法士会のますますの発展を祈念しております。
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- 公益財団法人福岡県
理学療法士会設立50周年
おめでとうございます
- 元副会長
(任期 昭和62年~平成18年)大峯 三郎
設立50周年を迎えるにあたり、まず思い浮かぶのは30周年記念式典を挙行した時のことです。今から20年前に橋元隆会長のもとで私が準備委員長を務めさせていただきました。来賓者、会員を合わせて総勢約350名近い方々に出席をしていただき盛会裡に終えることができてほっとしたことを昨日のように思い出します。
当時の会員数は1,100名程度であり、全国で3番目に多い会員数でしたが、約1/4の会員がこの式典に参加したことになります。記念式典では先人たちの遺した歴史と業績を振り返ることで県士会30年の歴史とその重みを若い会員に感じ取っていただきたいとの思いとこれらを継承していくための懸け橋としての位置づけで企画・運営を行いました。そのために準備委員・実行委員には各地区から多くの若い会員の皆様に参画して頂きました。橋元隆会長の「21世紀に向けて」と題した記念講演の後、特別講演には、橋元隆会長のたっての希望である元読売巨人軍の吉村禎章氏に「私の野球人生」と題して講演を行っていただきました。勿論、司会は会長ご自身でしたが、これは今でも語り種になっています。
私は1981年から福岡県理学療法士会の運営に携わりました。兵庫県から産業医科大学病院へ転入をした関係もあり、当時、渉外担当理事を務めておられた高山利和先生(旧九州厚生年金病院)のもとで県士会業務に就く機会に恵まれました。高山先生とは4年間ご一緒に渉外のお仕事をさせて頂きました。残念ながらお亡くなりになりましたが、今では忘れられぬ思い出となっています。1987年度から第4代目の県士会会長として橋元隆先生が就任され、同時に私も副会長として会長のお手伝いをさせて頂くことになりました。さらに高橋精一郎事務局長と共に実に20年間にわたり、三役としてタッグを組んで県士会活動に携わることができましたが、このことは私の人生の中で大きな宝物となっています。そのほか県士会活動でも数々の貴重な経験をさせて頂きました。第21回、第43回と2回の日本理学療法学術大会の企画・運営への参画や数々の講習会などの出務などです。中でも日本理学療法士協会に先駆けて福岡県士会生涯学習システムを逸早くスタートさせたことは特に印象に残っています。学術担当理事の濱田輝一先生(旧福岡東リハ学院)を中心に主要部員が夜を徹して議論を重ね、会議が終わるのが午前1時近くになることは珍しくなく、ある部員の先生などは奥様から浮気をしているのではないかと疑われるという冗談のような本当の話もありました。今となっては本当に懐かしい思い出になっています。
「リハビリテーションの陽は西から昇る」と例えられるように福岡県理学療法士会にもそのDNAは確実に組み込まれ、継承されています。福岡県理学療法士会が益々発展していき、日本の理学療法士会のリーダとして活躍されることを祈念してお祝いの言葉といたします。
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- 福岡県理学療法士会
設立50周年にあたって
-事務局の記憶-
- 元副会長
(任期 昭和62年~平成 2年)
元事務局長
(任期 昭和62年~平成18年)髙橋 精一郎
福岡県理学療法士会設立50周年にあたって、手元の設立30周年記念誌を紐解きながらこの20年間の変化を感慨深く振り返っています。20年前の会員数は1200名余りで、橋元会長、大峯副会長、私は事務局長として県士会の仕事に携わっていました。
就任当初は任意団体でしたので事務員さんもおらず、仕事の合間に会員名簿や書類の作成、会計の管理など、担当役員だけで処理していました。しかし、会員が700名を超えるようになると、名簿作成も会計処理も仕事の片手間ではできなくなり、事務員さんをアルバイトで雇用することになりましたが、事務所は私の勤務先から近いアパートの一室で、エレベータのない3階という状況でした。その当時の会費収入では便利で広い事務所を借りることはできず、急ぎ電話とパソコン、コピー機を揃えて事務所の格好を整えたものでした。事務員さんに仕事を覚えてもらうために、週に2~3回は昼休みに事務所へ行き、事務処理の指導・確認をしたものでした。さすがに3階まで物を持っての上り下りや和室仕立ての部屋で机と椅子を置いての事務仕事は不便で、事務員さんからの環境改善要望が出ました。法人を取得するタイミングもあって、郵便局にも近く、車も横付けできる建物の一角を事務所として借りることにしました。道路に面したドア窓に「福岡県理学療法士会」の表示をしたときには一人前の会になった喜びが湧いてくるとともにさらに拡大していくこれからの組織作りの不安も感じました。事務員さんも専任の方を雇用することができて、仕事片手間の任意団体から法人格を持った団体へと成長していく時代に関われたことは、自分に自信を持つことができた転機でもありました。しかし、会長をはじめとして役員の多くは40代で、私たちを取り巻く医療関係団体の中では子供扱いをされるほど、若くて経験の浅い団体でした。挨拶をする度に驚かれ、「お若いですね」と言われるのが常でした。背伸びをしながらも、会長は対外的な活動に力を入れ、それを副会長がサポートして、事務局長と各役員は内部のシステム構築に専念するという役割分担を明確にしながら、職能団体として学術団体として、社会に認知されることを目指して走ったように思います。
今では事務所も北九州から福岡に移り、公益社団法人を取得して昔の面影は残っていませんが、5500名を超える会員を抱える団体として恥ずかしくないものになりました。この20年間で会員数も4.5倍以上に増え、研修会や勉強会をはじめとするブロック活動も活発に行われています。あれからの20年間、役員の方々の努力に敬意を表するものです。県士会も半世紀を過ぎ、次の半世紀に向けて進んでいます。立ち止まることなく次の世代へのバトンタッチが行われ、益々躍進していく姿を見続けたいと思っています。
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- 50年を振り返り
福岡県理学療法士会の
更なる発展をお祈りします
- 元副会長
(任期 平成13年~平成14年)中村 一平
福岡県理学療法士会50周年を心からお祝い致します。1969年(S.44)から半世紀に亘って会をリードされて来られた歴代会長(大西、楠、下畑、橋元、明日先生)並びに西浦健蔵現会長に深く敬意を表します。
昨年末に下畑博正先生の奥方様から「8月3日に84歳で永眠しました」とのご挨拶状が届きました。温厚誠実な職人気質の大先達でした(合掌)。第3代会長として1973年(S.48)から14年間、地道に福岡県理学療法士会(士会)の礎を築かれました。士会は1987年(S.62)に橋元隆先生が第4代会長に就くまでは特例試験(S.41~49)を経た諸先輩と労苦を共にした草創期でした。
橋元先生の業績に触れるには紙幅が足りませんが、先生が率いた20年間は時代の潮流に乗って士会が発展、成長した時期でした。当時は『リハビリの陽は西から昇った』(理学療法学42巻8号2015年橋元著)と言われました。九州栄養福祉大学のHPには『労働福祉事業団九州リハビリテーション大学校(リハ大)は、昭和41年に開校し、日本のリハビリテーション医療の先頭に立ってリハビリテーションの概念を全国に広め、我が国のリハビリテーションの歴史を創ってきた』とあります。このリハ大の1期生(S.44卒)が橋元、2期生大峯、中山、3期生高橋、半田先生、小川参院議員は5期生です。1982年(S.57)に 国立療養所福岡東病院附属リハビリテーション学院(リハ学院)が開校された頃は、「理学療法士(PT)は金の卵」と持て囃されたものです。時代が下って、小泉内閣(2001-2006年)の構造改革のあおりを受け2004年(H.16)にリハ大、2008年(H.20)にリハ学院が閉校しました。
2007年(H.19)に明日徹先生(17期生)が第5代会長に就任し、士会執行部・役員が一気に若返りました。氏は日本理学療法士協会(協会)有数の会員数を背景に士会を充実、拡大させ、協会における地歩を固めました。同年の半田一登協会長誕生にも大きな貢献をしました。この年、PT養成校の入学定員11,646、PT合格者累計58,647に達し、“PTバブル期”に入りました。その後も養成校が増え、2018年3月末の入学定員14,051、合格者累計161,476、協会員数115,825、士会員数6,349 (士会HPでは5,554)に上り、PT過剰時代を迎えました(数字は協会HPより)。
私は65歳定年を機に士会を退会後、満70歳(1月)まで2施設で20数人の若い方々と働く機会を得ました。残念ながら士会員は2人だけでした。九州の養成校は40校を数え、特に福岡市には九州各県、山口県からPTの流入が顕著です。県内のPTは1万人を遥かに上回っているものと思われます。まさに士会は膨張期、混沌期と察します。51年目に向けて会長はじめ会員諸氏の英知と結束に期待します。
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- 福岡県理学療法士会
設立50周年に寄せて
- 第5代会長
(任期 平成19年~平成26年)明日 徹
公益社団法人福岡県理学療法士会(以下県士会)設立50周年を迎えられたこと、誠におめでとうございます。これまで県士会の運営にご尽力された諸先輩ならびに関係各位に感謝するとともに、現執行部役員含め会員諸氏に心よりお祝い申し上げます。
私は2007年4月から2015年6月まで4期8年間、会長を務めさせて頂きました。前任の会長が10期20年と長きにわたり歴任され、また交代時期には三役含め主要な理事も退任されたため、私の会長としての道のりは非常に険しく、大変苦労したことを昨日のことのように思い出します。会員数も5000名を超える大組織となり、職場のトップ経験がない私が、大組織をまとめることは並大抵ではありませんでしたが、当時の三役、理事、部長、運営委員含め、会員諸氏に支えられ会長の任を勤めることができたと思っています。
私の任期中の主な事業を経時的に列挙すると、①県士会ホームページリニューアル(2007年)、②第43回日本理学療法学術大会開催(2008年;準備委員長)、③福岡県理学療法士連盟設立(2009年)、④設立40周年記念パーティー開催(2010年)、⑤第33回九州理学療法士・作業療法士合同学会開催(2011年;学会長)、⑥公益社団法人の許認可(2013年)となります。前執行部の継続事業を円滑に遂行することに精一杯で、新事業としては多くの足跡を残すことはできませんでした。しかし、公益社団法人の許認可、ならびに福岡県理学療法士連盟の設立により中江誠初代連盟会長と協力し、これまで県士会活動としてタブー視されてきた政治活動を、会員諸氏に啓発できたことは、私の会長としての痕跡であると自負しております。私が会長となり歴史ある県士会役員が世代交代したことで、良い意味で会員の県士会執行部に対する敷居がさがり、意見を述べやすい組織になったことは、私の会長としての貢献だと思っています。
私の会長歴任時期に診療報酬・介護報酬体系含め、理学療法士の置かれている状況は大変厳しいものへ激変しましたが、逆に“理学療法(士)”の認知度も向上したように思います。理学療法士の働き方も今後大きく変わっていくことが予想され、県士会のあり方も柔軟に変化する必要があり、その役割は更に大きく、かつ重要になると思います。県士会が若い理学療法士やこれから理学療法士を目指す人々に対して魅力ある組織となり、行政含め他団体と密な関係を構築し、県民に対して貢献し続ける組織として、大きく発展していくことを切に願います。
私の理学療法士人生は、昭和60年に兵庫県(神戸市)でスタートしましたが、平成元年に地元の福岡県に戻って現在を迎えています。その平成の元号が終了し、新しい元号“令和”のスタートの年に設立50周年を迎えるのも何かの因縁を感じます。新元号と共に県士会がますます発展し、日本のリーダー的位置づけとしての県士会であり続けることを祈念致します。
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- 50周年に寄せて
~節にかかわる悦び~
- 元副会長
(任期 平成19年~平成20年)古島 譲
福岡県理学療法士会、1969年の立上げより数え2019年の今年、50周年を迎えられますこと心よりお慶び申しあげます。あわせて県士会をお支えいただきました歴代会長および理事の方々、そして現在に至る会員の皆様のご尽力に対して偏に感謝申し上げ、あらためてお祝い申しあげます。
そして、元号が新たになる国の節目に遭遇するなか、県士会50年の節目が時を同じくしてあることは、偶然とは言え福岡県理学療法士会の一員としてメモリアルで特別な年に喜悦を感じる次第です。
さて、僭越ながら“関節~節に関わることが常であり悦びでもある理学療法士~”としてお話しをさせていただきますと、県内数少ない理学療法士に呼びかけ思いを一つに組織化し、情報の共有、あるべき姿を模索した昭和の時代。21世紀の幕開けと共に専門性を自らに問い、エビデンスをパワーに変え、病院、施設だけに収まらず県民にアピールする体制を構築し組織力をチカラに突き進んだ平成。そして過去の経験に留まらず、予防理学療法、産業理学療法、学校保健事業など更なる職域の拡大を通して県民の生活水準向上をも視野に入れた令和の今。
この一連の節目を漢詩になぞらえれば、昭和は「起」、平成は「承」、令和は大きく羽ばたく「転」、即ち起承転(結)だと言えるのではないでしょうか。この50周年を迎え、輝かしい転機が待ち受けていることを胸に、心弾ませながら令和の時代を会員の一人として邁進したいと思うところであります。
ところで、2018年5月の週刊ダイヤモンド(第106巻19号)の特集によれば、医療系職種2040年需要予想で増加すると予想した割合が看護師と並び理学療法士が1位にランクされ職域拡大におけるポテンシャルを大いに秘めていると述べています。一方で、厚生労働省(2019.4.5)の理学療法士・作業療法士需給分科会では、2040年頃に供給数が需要数の約1.5倍になると言う相反する報告もあり、20年後、私たちの活躍の場は果たして如何なる状況下になっているのか。何れにせよ令和の時代は、理学療法士にとっても福岡県理学療法士会にとっても将来、想像を超えるturning pointになることも想定しておかなければなりません。
最後に節目の節は、竹によく例えられます。竹の強くしなやかに伸び続ける生命力の源が「節」です。強い風や雪の重みにも耐え、弓のように曲がりながらも、また元に戻り空に向かって伸びるのも「節」があってのこと。一つ一つの「節」を成長の起点として、さらに高く伸びていく姿を思い描き福岡県理学療法士会の益々の御隆盛を祈念申しあげます。
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- トップダウンと
ボトムアップ
- 元副会長
(任期 平成21年~平成24年)小柳 靖裕
1999年、福岡県理学療法士会はこれまでの5地区制(北九州・筑豊・福岡・福岡東・筑後)から現在の3支部8地区制へと組織改革を行いました。この年、県士会の会員数は1200名を超え、8年間で3倍に急増したことへの対応ではありましたが、当時の県士会執行部の、若い会員の単なる「参加」ではなく、積極的な「参画」への期待があったからだと思います。
その当時によく耳にしたキャッチフレーズが「トップダウンとボトムアップ」でした。優秀なリーダーによる「トップダウン」は発展途上の組織において効果的な運営を進める有効な手段であります。また、会員の声を反映させる「ボトムアップ」は、組織を成熟させ活性化させるためには不可欠な手段であります。私は若輩ながら北九州2地区の地区部長に任命され、会員一人一人の意思を会の運営に繋げる「ボトムアップ」の担い手として、手探りで地区運営を行いました。他の地区部長も初めての経験でしたので、お互いに相談しながら、時には切磋琢磨しながら、「○○地区が転倒予防事業を行った」と聞けばすぐに対応を検討したり、「○○地区が頻繁に会員と飲みニケーションを行っている」と聞けば負けじと地区懇親会を開催したりと、とても忙しいけれど充実した日々を送ってきました。県士会を盛り上げようと地区部員・会員といろいろ語り合ったあの頃は今でも良き思い出として残っています。
現在、福岡県士会の会員数は5600名近くとなり、3支部8地区制をはじめた頃の5倍に達するほどになっております。県別の会員数では全国第3位で、福岡支部の会員数(2200名)で見れば17位の長崎県と同等となっています。組織が大きくなればなるほどいろいろな課題が生じ、運営はさらに難しくなると思います。また、医療、介護、予防など理学療法士を取り巻く環境は今後さらに変革していくことでしょう。これらの問題に対応するためには、やはり第一線で働く現場の声を取り入れる「ボトムアップ」体制をこれまで以上に充実させる必要があると思います。
現在、私は県士会の活動からは離れておりますが、運営スタッフの皆様方のご尽力により細やかな県士会活動が推進されていることをとても嬉しく思います。
県士会の今後の更なる躍進を心から期待しております。
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- 福岡県理学療法士会
設立50周年に寄せて
- 前副会長
(任期 平成19年~平成30年) 永友 靖
福岡県理学療法士会設立50周年おめでとうございます。『学会を手伝ってくれないか』長崎県立病院から福岡の現職場に転職した翌年、恩師であり第4代会長に就任されたばかりの橋元隆先生からの暖かいお誘いにより、1988年都久志会館(福岡市)で開催された第10回九州合同学会が私の福岡県理学療法士会デビューとなりました。
第17回九州地区PT・OT合同学会(産業医科大学)での運営員を経て、2003年第25回九州地区PT・OT合同学会(福岡国際会議場)で運営副部長、2008年第43回日本理学療法学術大会運営部長を務め、尊敬できる師と出会い、志を共とする仲間と出会い、前途有望な若い理学療法士たちと出会ったことが私の最大の喜びです。
特に柳田健志先生(北九州八幡東病院)・森田正治先生(国際医療福祉大学)・古島譲先生(北九州リハビリテーション学院)・西浦健蔵現会長はそれぞれの学会で私に大きな影響を与えていただいた先生方で、この場をお借りしまして心から感謝申し上げます。学会は会員の研鑚の場であると同時に、その企画・運営に関わる理学療法士にとって多くのことを学び、達成感・連帯感を共有できる場です。また、才能ある若い理学療法士の発掘の場でもあります。これからも是非、福岡県理学療法士学会の質を高め、来る九州理学療法学術大会を成功させ、日本理学療法学術研修大会を積極的に誘致していただきたいと希望します。
さて福岡県理学療法士会執行部としては、1999年3支部8地区制を強化する方針にあたり『福岡1地区をまとめてくれないか』と先の橋元隆元会長からの依頼を受け、福岡1地区部長を拝命、その後福岡支部長を経て2007年明日徹前会長・2015年西浦現会長の下、12年間副会長を務めさせていただきました。ただし、私がその範とする大峯三郎元副会長(九州栄養福祉大学)の足元にも及ばなかったことは確かですし、大川裕行先生(西九州大学)からは『副会長たるもの会長を補佐する立場にありながら刃向うとは何たる様か』と叱咤を受ける有様でまったく不徳の致すところと反省しきりです。設立50年のこの節目に副会長複数制を復活されたことで、助言・補佐・諫めなどの役割の分散が図れたことをうれしく思います。
任期中、私のモットーは『誠実であれ』でした。役員・理事に対しても、そしてすべての会員に対しても常に誠実であることを心掛けました。これから10年、20年と福岡県理学療法士会をリードしていく皆さん、様々な苦労があることは重々承知していますが、どうぞ『誠実』であって下さい。それが福岡県理学療法士会のますますの発展を促す原動力なのです。